「背き」   01.10.07  サムエル下12:1〜15、コロサイ1:21〜22

 自分の罪深さに気づき、青ざめるようなときがあります。
 しかしその時にも、主イエスの十字架をみることが許されています。
 主によって罪を赦していただいたことを信じて、立ち上がることができます。
 それは、どんなに大きな恵みでありましょうか。

 ダビデは、青ざめ、恥じ入りました。ナタンから聞かされた無慈悲な男の話が、
他でもない自分のことだと指摘された時に、自分の罪深さに気づかされました。
ダビデは、人の妻を奪い、それをもみ消そうとし、さらには夫ウリヤが死ぬことを
計画しそれを実行しました。罪は罪を重ねてふくらむものですが、ダビデも大罪を
犯していました。自分の目にはうまくいったと思っていても、神の目には悪かった事は
明らかにされます。
 神は人から侮られることはありません(ガラテヤ6:7)。罪を告白することしかできない時がきます。

 詩51編は、ダビデがこの時のことを唄ったものです。神の裁きを待つ身でしかないことを告白します。
砕かれ立つこともできない心しかありません。言い訳も、お詫びもできないほどの自分の背きを
認めることしかできません。
 しかし、そんな罪の意識に縛られるだけでなく、そこで神の憐れみを求めることを知っていたのがダビデです。
これはあつかましい話です。しかし、どんなにあつかましくても、神の憐れみにかけるしかないことを認め、
そこに身を委ねきる。そこにしかダビデは身を置く場所がありませんでした。
 そんな、ダビデに「罪が取り除かれる」との言葉が向けられました。

 わたしたちもダビデと大差ありません。
神の前で振り返って自分の姿を見ると、背きにあふれた姿を発見します。
罪深さを知らされたとき、どんなにあつかましくても神の赦しを求めるしかできません。
 そんな私たちに、主の十字架が迫ってきます。「この十字架の下に身を置きなさい。罪を赦す。
赦された者としてあなたを生かす。ここでしかあなたは生きられないだろう」と。


 ここがわたしたちの生きる場所です。